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4連続奪三振1失点

野球は点取りゲームだからホームランを打っても相手のミスに乗じても
ホームにランナーが帰ってくれば1点である。
夏の予選では投手が連続4三振を奪う間に1点を取られたという珍しい記録
もある。1959年(昭和34年)の福岡県大会北部予選、戸畑―稲築の試合
でのことで、稲築の4回の攻撃、先頭打者が三振、捕手が後逸したことで
振り逃げで一塁に出塁した。次打者とその次の打者が連続三振。その間に
二盗と投手の二塁牽制悪送球で三塁まで進んだ。これで二死三塁。四人目の
打者のとき、捕手がパスボールしたことにより三塁ランナーが生還。1点を
あげた。そしてことあと打者が三振。ここに珍しい4連続奪三振1失点という
記録が生まれたのだった。失点はバッテリーの自滅だが、その間に4人の
打者すべて三振に奪うというのもすごい。
この記録は(当時)福岡の予選では初めての珍事だったらしい。
なお、戸畑はこの試合以降も勝ち進んで優勝。甲子園にコマを進めている。
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新記録の翌日にタイ記録

各都道府県の高野連高校野球史にはその地区の過去の予選の奪三振記録が
載っていたりするが、書店に並ぶような一般高校野球雑誌では各地区の予選の
奪三振記録まで詳しく載っていない。調べるとしたらやはり過去の新聞を
あたるのが一番だろうと思って、各新聞の縮刷版で奪三振記録を調べ
なんとか夏の地方大会 奪三振記録はここまで出来た。

戦前の夏の予選で京都商の沢村栄治投手が1試合23奪三振という快記録を
達成している。戦後しばらくの間、この記録は戦前の曖昧な記録として忘れ
去られていたようだ。戦後、最多奪三振記録として紹介されていたのが浪華商
の平古場昭二投手の1946年(昭和21年)第28回全国大会での19奪三振
だった。その後最多奪三振の新記録として紹介されたのが、江津工の宗近守平
投手が54年に東中国大会で達成した20奪三振。そしてまたしても新記録達成
として話題になったのが翌55年の豊橋工・長平良功投手だ。長平投手はこの年
の夏の愛知県大会3回戦の名古屋市工戦にて与えた安打1本、奪三振21の好投
で名古屋市工打線を抑えた。この試合は7月25日に行われたもので、翌26日
に早くもこの21奪三振の新記録に並ぶタイ記録が生まれた。武生の牧野伸投手
が福井県予選の勝山戦にて記録した。1試合奪三振の新記録が出た翌日にタイ
記録が出るという、いかにも「投高打低」時代を思わせる話である。なお現在
の夏の大会9イニング奪三振記録は83年、日大東北の斉藤勝己投手が福島県
大会の梁川戦で達成した25奪三振ではないかと思われる。

選手権大会参加賞

硬貨の製造を行う造幣局は明治時代に明治新政府によって大阪の現在地
(大阪市北区)に創設された。
独立行政法人造幣局サイトによれば、造幣局は貨幣の製造だけではなく、
ほかにも勲章・褒章及び金属工芸品等の製造なども行っているという。

1955年(昭和30年)の第27回高校野球選手権大会出場校の参加賞の製作に
当たったのが元造幣局の嘱託で「帝国美術院展覧会」(帝展)に出品したことも
ある宮島久七氏だ。朝日新聞7月21日朝刊にて、この参加賞の写真つきで
宮島氏の製作に当たっての感想が掲載されている。写真を見る限りこれは盾で
あると思われる。参加賞というのは参加者全員に授与される賞だから、甲子園
出場校すべてに配られていたのではないか。もしそうだとすればかなり豪華な
参加賞だ。参加賞のテーマは大会旗掲揚の感激の一瞬。一人の選手の
旗を見上げている横顔を大きく扱っている。宮島氏は感想の終わりを
この一人の青年像によって、満場の感激がくみとれたら望外の喜びである
と締めくくっている。

・・造幣局の嘱託(官僚の嘱託)というのはどういうことなのか。調べて
みると、造幣局は大蔵省時代の戦前、民間会社の金属関連の技術系の人たちを
嘱託として迎え入れていたようである。

管理か自由か

昔の野球の強い高校の監督といえば、とにかく怖い鬼のような監督をイメージ
する。だが、単に理不尽なスパルタ一辺倒ではチームは強くならないはずだし、
選手たちもついて来ない。

ベテラン、新鋭、元プロ野球選手、元甲子園球児、などなど多彩な顔ぶれが
揃った1959年(昭和34年)第31回選抜大会の出場23校の監督たちの
特徴を調べてみた(毎日新聞より)。
まず監督の特徴として大きく二型に分けられる。「完全掌握型」と「自由型」
だ。大雑把に分ければ「管理野球」と「野武士野球」ということか。
完全掌握型というのは、つまり監督が一投一打に指令を出し、なにもかも
監督の型にはめ込むというやり方だ。動く選手たちにとっては細かいところに
まで厳しい指摘が入るわけだから、堅苦しいものであるのは間違いないが、
野球に詳しく戦術に長けた監督であればこれがうまくいく。ただ相当牽引力の
ある指揮官でなければ務まらないのは確かだ。代表的なのが年長者・54歳
の高知商・松田監督だ。松田監督は甲子園常連の強者で、戦術として特徴的
なのが、立ち上がりの先制攻撃だ。機動力で相手を揺さぶり、その間に強打を
見舞うというもの。
一方、1人1人の選手の適正を生かしながら試合を進めるタイプの自由型では
苫小牧工の徳永監督、松商学園の胡桃沢監督、富田林の菊矢監督など。
苫小牧工はアイススケートの名門校で、野球部員達ももちろんスケートがうまい。
そのスケートで鍛えた機動力が持ち味で新チーム結成以来盗塁の山を築いた。
富田林は鉄砲訓練(バットの先の太い部分でバントをやる訓練)という独自の
練習法で打撃力を上げた。松商学園の胡桃沢監督は正しい指導をするためには
自分も厳しく律しなければならないとし、飲酒を10年も控えているという
努力家。岐阜の中野監督はかつて清沢投手(慶大)などがいた時代も選抜制覇を
成し遂げることができなかった。そこで厳しい精神修行に乗り出した。お寺に
下宿を移して毎夜座禅を組み、ここで妙案を練ったという。
この時代ではまだ数少ない(と思われる)合理的な訓練と理論を重視するのが、
石和の土屋監督だ。土屋監督は理科系統の先生ということもあり、「計算した
読み」を得意とする。ID野球の先駆者の1人ともいえそうだ。
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