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ドラフト会議1965年(3)

こうして始まった初の新人選択会議。まずは各球団が特に欲しい選手12人を
選んだ第一次選択のリストをコミッショナー事務局へ提出。ここでまず各球団
がもっとも欲しい1人の選手の交渉権を獲得することになる(一次選択、つまり
ドラフト1位選手)。木樽投手や新宅捕手等の注目選手が選択順位1位で競合
するものと思われたが、各球団の事前の探りあいが極めて深く、競合を避け
ようとしたため、一次選択の抽選はわずか二度だけとなった。
森安投手(東映、サンケイ→東映が交渉権獲得)
田端投手(近鉄、広島→が近鉄交渉権獲得)
これで抽選に外れたサンケイと広島は第二位にランクした選手から一次選択
選手を選ぶことになった。そのほかの球団は競合がなかったためすんなりと
無抽選で交渉権を獲得した。高校球界屈指のエース木樽が一次選択からはずれた
のは進学説が強かったため各球団が敬遠したというものだ。
これで各球団1位選手との交渉権を獲得したため、ここからウェーバー方式と
逆ウェーバー方式で2位以降の選手の選択を開始。
近鉄→サンケイ→東京→広島→阪急→大洋→
西鉄→阪神→東映→中日→南海→巨人・・その逆順の繰り返し
最初に指名権を持った近鉄は第一次選択リストで2位に書き込んだ木樽投手
ではなく選択リスト12人の中に入っていなかった鈴木投手(育英高)を指名
した。三番目に指名権を持った東京が木樽投手を指名、また新宅捕手は
十番目の中日が指名した。このあたりも各球団の探りあいをいったところか。
結局リストに記載された134人のうち、131人の指名され会議が
終了した。
そんななか指名に不満を持った選手が続出。プロ入りの意思がある選手たちに
も「意中の球団ではなかった」という声があがった。巨人の1位にランク
された堀内投手(甲府商高)も指名された時点では進学したいともほのめか
している。
このようにプロ入りを渋る選手が多い中、選手を口説いて入団させるのは
至難の業だ。裏金が出ることも懸念されており、はたしてこの新制度がうまく
いくかどうかは、長い目で見ないと判断できないわけだ。
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ドラフト会議1965年(2)

有力新人たちにとってドラフト制度が面白くないと思ったのは、やはり金の
問題だろう。ドラフトがはじまるに当たり、契約金の上限が約1300万円と
検討された。ある選手は前年大学を中退してプロ入りする予定であったが、
その時の契約金は3000万円だったという。それをとどまったため、多額の
契約金をもらい損ねたわけである。おまけに自由競争時代と違って好きな
球団に入れる保障もない。ドラフト初期に入団拒否の選手がかなり多いのは、
こういった背景があったものと思われる。
さらには「ドラフト制度など3年もあればつぶれる。」と、ドラフト制度自体
が長続きしないと予想する声も多かった。だからそれまでプロ入りを渋ろうと
いう選手も結構いた。
だが、ドラフト制度により上限が定められることになったといっても、実際
にはそう簡単ではなかったようだ。抽選で引き当てた有望新人が必ずしも
入団してくれるとは限らない。ここからまた勧誘するのでは遅すぎる。だから
指名前に前もって先手を打ち、あの手この手で選手を勧誘しなければならない。
そのため多額の裏金が動くことが懸念された。
そのほかにも「うちの球団に入ってから、その後君の希望する球団とのトレード
を考える」といって入団させた例もあるのではないかとされる。
この年のプロ野球は各球団大物選手のトレードが話題になったので、
(阪神・吉田、藤本、巨人・伊藤、西鉄・バーマなど)そこへ
ドラフトが絡み、有望新人と大物選手のトレードも有り得るとの見かたも
あった。
このドラフトはそもそも球団経営の合理化が目的。このほど球団の登録
選手を50人以内にすることが決まった。人件費削減だ。1チーム60人
ぐらいこれまでプロに登録されていたため、1チームで約10人がクビになる
計算になる。おまけにドラフトで新人選手が入団するわけだから、さらに
また数人のクビが危うくなる。

ドラフト会議1965年(1)

今年のドラフトでは米大リーグ挑戦もあるかと思われた注目の菊池雄星投手に
6球団が1位指名で競合し、西武が交渉権を獲得。また今春の選抜優勝校の
清峰から今村猛投手と4年前の夏の甲子園で活躍したOBの古川秀一投手
(日本文理大)が共に1位指名を受けるという快挙もあった。
今年のドラフトも終わったので、これまでのドラフトの話題を取り上げて
みようと思った。

ドラフト会議が始まったのは1965年(昭和40年)のこと。この年、
日本シリーズが終わった直後、南海の鶴岡監督が辞任を表明したことにより、
同監督獲得に向け、東京オリオンズとサンケイスワローズの両球団が
動き出したところだった。こうして幕を開けたプロ野球ストーブリーグだが、
この年からドラフト制が導入されたことにより、例年のような大物新人獲得
の動きもまた変わってきた。これまでの自由競争ではなく、球団は獲得したい
新人選手をコミッショナー当局に提出しなければならなくなったからだ。
戦力の均等化、弱小球団の赤字解消、企業の健全化を目的として各経営者が
集まって作ったとされるこの新制度の内容を簡単にみてみると
◇十二球団は30人以内に絞った欲しい選手を名簿に書きコミッショナー
事務局に提出する
◇特に欲しい選手を12人選び、その順位をつける
◇指名は1位にランクした選手からはじめる。1位指名選手が重複した場合
は抽選が行われる。指名選手が重複しなかった場合は指名交渉権を獲得
◇第一次選択(1位指名)で各球団が1人の交渉権を得ると、残りの
選手は第二次選択に回され、ウェーバー方式と逆ウェーバー方式を採用。
つまり最下位球団から順に指名していき、ひととおり指名がおわると、
今度は上位球団から順に指名していくというもの。だから指名の重複はない。
◇会議は公開しない
◇選手リストは会議前日に全球団に配られる
◇交渉権は翌年の10月末まで(はっきりした日は明示されていなかった
ようだ)
だが、中学、高校生が進学した場合は交渉権を失うことになる。
また社会人野球関連でも制約はある(この制約もまだはっきりと決まって
いなかったようだ)
◇中退選手の指名権は十二球団平等
・・とこんな感じだ。他球団のリストを事前に手に入れることができる
(毎日新聞より)というルールはその後変更になったのではないか。
当たり前のことだが、有力選手はどの球団も欲しい。だから指名する際には
他球団の動向も気にしなければならない。できるだけ指名の重複(交渉権
獲得失敗のリスク)を避けたい。また交渉権を獲得できたとしても、
すんなり選手側が入団してくれる保障がないのも難しいところ。
そんな中この新制度によりプロ野球を敬遠しノンプロ入りを考える選手
たちも出てきた。注目選手でいえば平松政次投手(岡山東商)は日石に
内定し、木樽正明投手(銚子商)は早稲田大か立教大を希望、広野功選手
(慶応大)はアメリカ留学するという話も出てきている。
ドラフト初期は概ね選手たちの側からすれば不評だったようである。

指名選手(wikipediaより)

ドラフト制度前のトラブル

プロ野球においてドラフトが行われたのは1965年(昭和40年)が最初に
なる。それまでの自由競争では新人選手を獲得するための費用が年々高騰して
きており、その契約金抑制を目的としてドラフト制度が始まったとされる。
また金のある球団に戦力が偏ってしまうのを防ぐという理由もあるようだ。
時代は巡り、(某球団のゴリ押しによって?)逆指名制度さらには自由獲得枠
なるものまでが登場し、ドラフト制度が形骸化され、ほとんど自由競争時代と
なってしまったこともあった。自由獲得枠はその後廃止になったが、現在も
その他さまざまな点で議論がなされている。

ドラフトが始まる前の自由競争時代の新人選手獲得を巡るトラブルはかなり
多い。なかでもそのトラブルに巻き込まれたことにより選手のみならず
所属する野球部までが犠牲となり、甲子園出場(または甲子園に直結する予選)
を棒に振った例もある。
空谷事件
1964年(昭和39年)ドラフト制度が始まる前年にもトラブルは起こった。
この年の夏、広島市民球場で行われた広島県大会の開会式のあと広島県高野連
は、大会有力校にも数えられていた北川工が提出した出場辞退届けを正式に受理
し、北川工の大会不参加が決定した。辞退届けの内容は野球部の高橋一三投手
がプロ球団(それも巨人と近鉄の二重契約)と交渉した疑いがあり、日本学生
野球憲章にふれる恐れがあるということで、確証がつかめていないまま教育的、
良心的な立場から出場を辞退したというものだ。この報告を受けた広島県高野連
はその後、北川工に対し対外試合を無期停止にし、おまけに昨年の中国大会終了
以後の公式戦記録を取り消すという厳しい対応を取ったのだった。
憲章に違反するのは確かによくないことだが、なんとも非情な対応なのであった。
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