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春夏優勝校決戦−1

シーズンオフに入ったので、戦前の中等野球時代の話やその他の話題を
いろいろと取り上げていきます。まずは先日私の掲示板でも話題になった
中等野球 春夏優勝校決戦から(弘田氏に資料のご提供をいただきました)。

1927年(昭和2年)から選抜優勝校は夏に日米親善という趣旨によりアメ
リカ旅行に行けるという特典がついていました。アメリカ旅行は7月中旬
から9月中旬までの長期にわたるもので、その間に、アメリカメジャーリーグ
の見学や親善試合などを行うというもの。この旅行の期間は夏の大会期間とも
重なるため、春の優勝校は留守部隊で夏の予選を戦わなければならず苦戦を
強いられました。夏の大会に肝心の春の優勝校の主力を欠く。これに関しては
春の大会主催の毎日新聞社が朝日新聞社主催の夏の大会の興味を削ぐため
の陰謀だったのではないか、なんて話もまことしやかに言われています。

◆1927年(昭和2年)

1927年(昭和2年)の春優勝校・和歌山中は補欠メンバーで夏の予選も勝ち
抜き甲子園出場を果たしましたが、初戦で大敗。結局この大会を制したのは
高松商でした。大会終了後になって和歌山中レギュラーがもし渡米せずに
大会に参加していたならば高松商の夏日本一も危うかったのではないか、
本当に強いのなら和歌山中と対戦してみたらどうか、そんな声が阪神地域の
ファンの間で起こりはじめ、春の大阪毎日、夏の大阪朝日両新聞社に対決を
要望する投書が激しくなってきました。しかしお互いの面目もあって両新聞
社ともとりあげることはできませんでした。そこで名乗りをあげたのが
寝屋川球場を所有する京阪電車、それと阪急電車。京阪電車が持つ寝屋川
球場で両チームとも幾度となく招待試合をしており、そのお世話になったと
いう意味もこめて「京阪電車主催ならお受けしても良い」と両チーム承諾
したことで、春夏優勝校の一大決戦が実現することになりました。
[中央運動社(スポーツ雑誌の出版社)主催説あり]

■11月6日(寝屋川球場)
高松商
303 000 100 =7
201 000 100 =4
和歌山中
【高】 水原、井川―多胡
【和】 小川―島本

1回表、高松商のトップバッター・堀の初球セーフティーバントという奇襲攻撃
をしかけた。三塁線に転がしたバントで見事出塁。和中にとっては青天の霹靂
ともいえる出来事で、和歌山中の好投手・小川も動揺を隠せず。高松商はここ
からチャンスを広げ初回に3点を先取し、その後も和歌山中の小川を攻め合計
7点。和歌山中も反撃したが追い上げ及ばず。こうして高松商が和歌山中を
破り真の日本一に輝いたのでした。

当時の高松商はこの試合の初回先頭バッター初球バントという意表を突いた
攻撃をはじめ、野球の奥義を窮めた頭脳プレーが随分と進んでおり、例えば
速球投手対策として練習時に投手が前に立って投げるというのもこの当時から
やっていましたし、相手捕手のサインを盗むためにセンター後方から関係者が
双眼鏡で見て、サインをこうもり傘の開閉で送っていたいう話もあります
(現在ではもちろん禁止です)。

◆1928年(昭和3年)

ラジオで中継が全国展開となった1928年(昭和3年)。春は関西学院中が優勝
しました。夏の予選、主力のいない関西学院中は早々と敗退し甲子園出場を
逃しました。この夏の大会で優勝したのはのちプロ野球史上初の三冠王となる
中島治康がいる松本商でした。その後、前年と同じように春夏優勝校の対決
(関西学院中VS松本商)が実現するのですが、前年のような「春夏優勝校を
対決させよう」といった盛り上がりはなかったようです。これは春優勝の関西
学院中が前年優勝の和歌山中ほど実力を評価されていなかったからかも知れま
せん。また、秋に真の日本一決戦を行うのが恒例となれば、春の優勝校主力
選手を欠く夏の大会が権威を落とすということも考えられるため、朝日側と
しては面白くなかったのではないかというのも考えられます。

関西学院中と松本商の春夏優勝校決戦は前年のような単独ではなく、大会の
一部として行われました。大会は松商野球部戦歴史 留魂には「スポーツマン社
主催中等学校リーグ戦」とあり、大阪朝日新聞には「全国中等選抜野球」とあり
ます。場所は藤井寺球場。当時「○○選抜中等野球大会」のような名の大会は
全国各地で繰り広げられていたので、朝日の「全国中等選抜野球」というのは
単に省略してこういう呼び方をしたのだと思います。

野球統制令以前の大会一覧

この「スポーツマン社主催中等学校リーグ戦」は名のとおりリーグ戦で
行われたのでしょうが、一部しかわかっていません。

■11月3日(藤井寺球場)
和歌山中
000 000 200 000 0 =2
100 000 001 000 0 =2
松本商
<延長13回ドロンゲーム>
【和】 小川―島本
【松】 中島―百瀬

■11月4日(藤井寺球場)
和歌山中
010 000 010 =2
000 000 010 =1
鹿児島商
【和】 小川―島本
【鹿】 能勢―餅田

■同
関西学院中
000 000 000 =0
001 010 10X =3
松本商
【関】 悳―浅井
【松】 中島―百瀬

― リーグ戦結果 ―
 松和関鹿
松\△○?
和△\?○
関●?\?
鹿?●?\
―――――――――

ここに名前のある学校すべてがこの後行われた東京六大学野球連盟主催の
御大典奉祝野球大会に参加しています。松本商の初戦は11月8日(早大
球場)。大忙しです。野球統制令が発令される前は強豪校がいかに多く
の大会に参加していたかがわかります。
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選抜発祥の舞台

読売新聞社が高校野球の主催権を獲得すれば、全国大会の舞台が甲子園から
東京ドームへ移されるかもしれないというあまり現実的ではない話もあるが、
大昔、甲子園球場が誕生する前は、春の選抜大会は第2回以降を全国各地で
開催することも予定されていた。今回、読売が高校野球界に新規参入を目指し
ているということで、朝日と毎日がタッグを組んだ形だが、大昔の中等野球
時代に遡ると、主催社の朝日・毎日の新聞競争がからむ話も結構多い。
選抜大会の第1回は関西方面ではなく、名古屋の山本球場で開催されている。
なぜ夏の大会が行われている関西ではなく名古屋なのか。それは当時名古屋
進出を巡ってしのぎを削っていた朝日、毎日両紙の新聞競争が背景の一つに
ある。選抜第1回の舞台が名古屋になったのは中京圏の野球ファンの要望が
あったのと、紙勢拡大をはかる毎日が新聞を名古屋に普及する意図からと
いわれる。また毎日が選抜第2回以降を全国各地の開催にしようと計画した
のも、同じく新聞普及の意図からだという。名古屋で開催された記念すべき
選抜発祥の話を毎日新聞にて調べてみた。

名古屋市昭和区八事の高級住宅が立ち並ぶ丘陵地帯にかつて選抜発祥の地で
ある山本球場があった。この山本球場は戦後しばらくして(時期は複数の説
がある)、国鉄が山本株式会社から買収し、「国鉄八事球場」へ名称を
変更。後楽園を目指す国鉄名古屋野球部の本拠地となっていたが、国鉄
がJRになり、JR東海となった旧国鉄名古屋がそのまま使用した。だが、
その後球場の老巧化などもあって運輸省国鉄所有地売却二次リストに
JR東海八事球場が含まれことにより、閉鎖、撤去された。
山本球場を作ったのは同市中区で運動用具店を営んでいた山本家。主人の
山本権十郎氏が野球好きの友人に球場建設を持ちかけたのがきっかけだ。
富豪の山本氏は小学校の林間学校用地として土地を提供していた(通称
「山本山」)。この山本山の丘陵1万平方メートルの場所を使って赤土
のグランドにトタン塀のシンプルな球場が完成したのは1922年(大正
11年)のこと。当時名古屋で最大規模を誇ったという2000人の収容
人数を誇り、孫の真之助氏の話によれば、この球場のこけら落としは早稲田
大学の試合で、見物料は50銭だったという。
1924年(大正13年)記念すべき第1回の選抜野球大会は大盛況。
球場に入りきらなかったファンは、近くの丘に登って観戦していたという。
当時の尾張電気軌道は名古屋市電から車輌を借りてピストン輸送し球場へ
ファンを運んだ。
翌年の大会からは選抜も甲子園球場で開催されることになりそのまま定着。
山本球場がその後、中等野球、高校野球の全国大会として使用されること
はなかった。

史上初の大会2連覇

駒大苫小牧の夏の甲子園2連覇は記憶に新しい。夏の2連覇は57年ぶりの
ことだったから、いかに大変な記録かはこの数字だけでわかる。
戦前は参加校が少なかったこともあってか、甲子園や神宮大会など全国大会
で連覇を達成した学校は結構ある。夏の大会で最初に連覇を達成した学校は
1921年(大正10年)第7回〜1922年(大正11年)第8回の和歌山中で、
いまから80年以上も遡る。特に第7回の和歌山中の猛打は伝説となっている。
4試合でなんと75得点(7失点)をあげた打線は驚異的だ。1試合あたりの
得点20点近く、通算打率.354(175-62)は長らく夏の大会最高打率であり
続けた。戦前最強チームの候補の1校だろう。2連覇を達成した第8回も前年
同様予選を圧倒し全国に乗り込んできた。だが、全国での戦いは前年と違い
苦戦続きで、接戦を次々と制して決勝まで勝ち上がった。
主戦投手は前年夏は内野手として活躍した井口新次郎投手。
この大会、和歌山中の井口投手のライバルといわれたのが神戸商の浜崎真二
投手(のち高橋監督)松山商の藤本定義投手(のち大映監督)。この両者は
準決勝で顔を合わせて接戦を演じた。松山商はピンチでスクイズを見破った
ものの、三本間の挟殺プレーの間走者に球を当ててしまい神戸商のランナー
がホームイン。神戸商が決勝で和歌山中と対決することになった。
和歌山中は大会史上初となる二ヵ年連続優勝を狙う。一方の神戸商は中等球界
の麒麟児・浜崎投手の抜群のマウンド度胸で挑む。神戸商の応援団は井口投手
を「紀州のクジラ」と野次で冷やかすなど、試合前からかなりエキサイトした
ようだ。両校応援団の試合に対する意気込みは半端ではなかった。
和歌山中は早大と太いパイプを持ち、一方の神戸商は慶応系の学校で、両校の
対決は早慶戦の中等野球版みたいなものだったからだ。
明治10年11月、当時の県令(県知事)森岡昌純は慶応義塾の福沢諭吉先生と会談
し、創立の斡旋を依頼し、…創立答辞は慶応義塾の教師その他一切を引き受け、
校費の200円は県税より支出された。(県商100年史より)

兵庫県立神戸商業高等学校サイトより孫引き

決勝の試合は加藤吉兵衛氏が主審、佐伯達夫氏が一塁塁審をつとめた。神戸商
は初回の猛攻でいきなり3点を先取。後半にさしかかったところで4-0と
リードした(試合が終盤になり優勝を確信した地元夕刊紙が「神戸商業優勝」を
伝える新聞を配ったというエピソードは有名)。追う和歌山中は8回に猛攻
で4-4の同点に追いつき、さらに一死三塁のチャンスで打者・井口はスクイズ
のサインを見逃すも、なぜか三塁ランナーが飛び出すことがなく、ピンチを
切り抜ける幸運があった。その後スリーバントスクイズで決勝の5点目をあげ
9回に更に加点。和歌山中が8-4で神戸商を降し、大会史上初の2連覇を成し
遂げたのだった。

<鳴尾>
和歌山中
000 000 053 =8
300 100 000 =4
神戸商
【和】井口―武井
【神】浜崎―網干

なお、決勝を投げ合った両投手、当たり前のように井口投手は早大へ、
浜崎投手は慶大へ進学。復活早慶戦で母校の名誉をかけて戦うなど、
両投手は長らく宿命のライバルであり続けた。「同じチームで試合をしたい」
と話し合っていたが、実現はしなかったようである。

生糸の町から甲子園

蚕は幼虫から蛹(さなぎ)になるとき、自身の体を保護するための覆いである繭
を作る。養蚕業というのは蚕を飼育し、その繭から絹を作る産業のことを言い、
さらに加工を加えた(製糸業)ものが動物繊維となる。現在は絹が海外から
安価で輸入できるということで、国内の養蚕業は激減してしまっているらしい。
養蚕業というのはなんと既に紀元前から中国であったと言われ、日本では
幕末から昭和初期あたりはかなり盛んだったようだ。この業界で働く人材を
育成するために、養蚕業の盛んな地区では熱心な教育が行われていたもの
と思われる。

1929年(昭和4年)第15回優勝野球大会に初出場を決めた諏訪蚕糸
(現岡谷工)。このときの同校は彗星的に現れた実力校として注目を浴びた。
それもその筈、種農学校系のチームが全国大会に出場するのはこの諏訪蚕糸
が大会創始以来初のことであり、さらに予選では、前年夏の覇者でのちの
プロ野球史上初の三冠王・中島治康投手率いる松本商を完封に封じ込めての
勝利で堂々、甲子園に乗り込んできたからだ。

◇甲信越大会準決勝
諏訪蚕糸
000 400 000 =4
000 000 000 =0
松本商
【諏】中村三
【松】中島、高野

全国屈指の強豪・松本商を完封で降したとあって、諏訪蚕糸は甲子園初出場
にもかかわらず、いきなり優勝候補の一角に躍り出た。同姓の左右・中村両
投手はともに実力があり、さらに各野手の攻防いずれも評価が高い。実力
だけで見れば出場校中最強とする声もあるほど。また彗星のごとく現れた
話題性も観客の人気を呼びそうだと予想される。

・・この年同時に注目された新鋭校が和歌山中の連覇が途切れた紀和の代表
の海草中だ。

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