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「幻の甲子園」優勝記念の石碑建立

夏の高校野球史に残されていない「幻の甲子園」大会
で優勝した徳島商の校内に優勝記念の石碑が建てられ、
22日、生徒や当時の選手ら関係者が出席して除幕式が
行われました。

夏の高校野球(当時は中等野球)は41~45年の間
戦争の影響により行われなかったのですが、42年には
戦意高揚を目的として文部省主催による大会の一部として
野球大会が開かれました。

幻の甲子園:1942年の全国制覇を形に 徳島商に記念碑建立 OBら提案、100人出席し除幕式 /徳島
◇現役部員「功績と伝統引き継ぐ」
太平洋戦争中の1942年夏に兵庫県の阪神甲子園球場で
開催され、大会史に残らずに「幻の甲子園」と呼ばれる野球の
大会で県立徳島商業高校が優勝したことを記念する石碑が、
徳島市城東町1の同校内に建立された。「幻の優勝を形に残したい」
と同校OBらが学校に提案。22日、生徒や当時の選手ら関係者約
100人が出席して除幕式があった。【大原一城】
現在「夏の甲子園」として開かれる全国高校野球選手権大会は1915年
に「全国中等学校野球優勝大会」として始まり、以後ほぼ毎年開かれて
いたが、41~45年は戦争の影響で中止された。
しかし、42年には戦意高揚を目的に文部省(当時)などが主催して
「全国中等学校錬成野球大会」が開かれ、全国から16校が参加した。
この大会に出場した徳島商は、決勝で平安(京都)を8-7のサヨナラ
勝ちで破り、優勝を果たした。
球場には「戦ひ抜かう大東亜戦」などの横断幕が掲げられ、戦時色
の濃い大会だったという。優勝旗など当時の資料の多くは45年の
徳島大空襲で焼失。現在も残るのは、甲子園歴史館で展示されている
ウイニングボールなど数少ない。碑は、40年の入学生でつくる
「燦々(さんさん)会」が学校に提案し、費用も負担した。県内産
の青石を用い、書道家で同会会長の春藤孝雄さん(85)が「甲子園
球場史に残らないまぼろしの全国優勝を果たした」などと碑文を
記している。
この日の式では、春藤さんや瀬尾寛・現校長があいさつし、関係者で
除幕。その後、現役生徒と卒業生が一緒に校歌を歌った。
東京から駆け付けた当時のチームの一塁手、梅本安則さん(同)は
「戦中にもかかわらず思い切り猛練習でき、試合でも勝手に体が
動いた。形に残してもらえてありがたい」としみじみ。現役野球部員
の2年、前川紀洋主将(17)は「先輩方の功績に恥じないよう、
伝統を引き継ぎたい」と力強く語った。

毎日新聞 10月23日(火)16時14分配信より

「幻の甲子園」大会1942年

弘田正典氏作による学徒大会の「幻の甲子園」大会の予選結果
(すべてPDFファイル)
学徒大会「東日本編1」(北海道~南関東)
学徒大会「東日本編2」(南関東~東海)
学徒大会「西日本編1」(北陸~大阪)
学徒大会「西日本編2」(東中国~台湾)

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選抜復活の交渉

【伝記】 白洲次郎 〜 マッカーサーを叱った男 Part.1
NHKで白洲次郎という人物のドラマをやっていたのだが、その少しまえに[開運!
なんでも鑑定団]で「マッカーサーに送ったという椅子」で彼の話が紹介されて
いたのを覚えており、興味があったので見た。終戦直後のGHQ支配下の日本で
吉田茂首相の側近として活躍した人物で、当時、神として君臨していた
進駐軍GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめ、筋道の
通った交渉により戦後復興の陰の立役者となった。

戦後の選抜中等野球もまた関係者の根気強い交渉によって復活を成し遂げ
ることができた。戦後すぐに、のち高野連会長となる佐伯達夫氏は全国中等
学校野球連盟の設立に奔走、中等野球復活の道を開き、それまでの「新聞社
主催」から「連盟との共催」というシステムを確立した。戦争が終わって1年、
1946年(昭和21年)に夏の中等野球が復活を果たし、その後連合軍に
働きかけ、翌年には甲子園球場の接収解除にも成功。選抜も復活の機運が
高まっていたところ、GHQ民間情報教育局ノーヴィル少佐は「全国大会は年
1回でいい。新聞社主催の全国大会なんて米国では聞いたことがない」と選抜
開催に対して難色を示した。選抜再開を目指す佐伯氏や毎日新聞大阪本社の
開田靖一部長らは少佐説得にあたったが、困難を極め関係者は焦った。
このピンチを救ったのが、通訳の三宅悦子氏(声楽家・三宅春恵氏の母)
で、選抜開催を渋る少佐に対し、「少佐、そんなにあなたが頑張って大会
を中止させたら、日本人から一生うらまれますわよ」とやんわりと言った
という。どうやらこの一言が効いたようだ。選抜は「本年だけ」の条件つき
でようやくOKをもらうことができたのだった。

戦わずして出場校決定

1946年(昭和21年)、終戦からわずか1年で夏の中等野球が復活した。
この第28回大会は甲子園が米軍に接収されていた関係で全試合が西宮球場にて
行われた。夏の甲子園が復活したとなると、当然翌年47年には選抜も復活
させよう、となる。当時日本を支配していたGHQ(連合国最高司令官総司令部)
の民間情報教育局は選抜開催に難色を示していたものの、のち高野連会長の佐伯
達夫氏らの尽力により”今年限り”の条件つきで開催を認められるに至った。

記念すべき選抜復活の社告は毎日新聞1947年(昭和22年)の1月23日
付けで掲載されている。開幕は3月30日。だからこれまでの間に選抜出場校
を決めなければならない、ということで各地で選抜選考を兼ねた大会が行われる
ことになった。グランドコンディションの関係で北海道、東北、北陸の雪国
地方のチームは試合を行うのはおそらく困難であっただろうと思われる。
これらの地方のチームは最初から選抜選考の対象になっていなかった模様
(山陰から松江中が選ばれている)。
実はグランド状況に翻弄されたのは雪国チームだけではなく九州大会もだった。
選抜選考の資料にするための開催されることになった九州中等学校野球大会
は八幡市大谷球場で2月8日から5日間かけて開かれる予定だったが、降雪に
よるグランドの都合上、開幕は翌9日に変更された。

◆参加校及び組み合わせ(毎日新聞福岡版)
▽1回戦
A.小倉中―中学済々黌
B.唐津商工―宮崎中
C.豊国商―長崎商
D.鹿児島中(※)―中学修猷館
▽準々決勝
E.Aの勝者―福岡工
F.Bの勝者―鹿児島商
G.Cの勝者―大分中
H.Dの勝者―熊本商
▽準決勝
I.Eの勝者―Fの勝者
J.Gの勝者―Hの勝者
▽決勝
K.Iの勝者―Jの勝者
※鹿児島中はチーム事情により参加辞退。代わりに大分商が参加
することになった。

というわけでどんな結果だったのだろうと9日から順に記事を見ていこうと思った。
開幕日の9日は降雪による球場コンディションの影響で15日に延期された、
とある。15日の記事を見ると16日にまた延期。16日が17日に延期。さらに
17日が22日に延期。この頃の北九州地方はそんな大雪がつづいたのだろうか?
22日がまたしても延期となり翌3月の2日に大会が行われることになった。
ところが大会を控えた3月1日。九州大会はまだ始まっていないにもかかわらず
晴れの第19回選抜出場26校が毎日新聞にて発表されてしまったのだった。
九州からは小倉中、中学済々黌、熊本商の3校が選ばれた(経緯は不明)。
九州各県の中等野球連盟としては、せっかく九州大会の開催を予定していた
のに、延期が続くうちに選抜選考委員に勝手に代表校を決められてしまって、
肩透かしを食らったという感じだろうか(新聞紙面を読む限りでは、選考委員
から「九州選抜校はこっちで決めるよ」という連絡はなかったようである)。
選抜出場校の発表後から大会終了までは他の野球大会やリーグ戦に参加でき
ないという大会規定があるため、九州大会は結局5月に改めて開催される
ことになった。

・・その後の5月の紙面を追ってみたが、九州大会が開催されたような記事を
見つけることはできなかったので、大会は行われなかったのかもしれない。

真田投手の完全試合

甲子園(全国大会)で達成されたノーヒットノーランは一般の高校野球関連
書籍に載っているが、地方予選でのノーヒットノーランの一覧を掲載した
書籍は見たことがない。ならば自分で作ってしまおうと、各新聞の縮刷版や
書籍をあたり、高校野球ノーヒットノーランのコーナーの作成を始めたのが2年前。
地道に続けてきた甲斐あって、内容が結構充実してきたという実感があるが、
戦前の資料は探すのが非常に困難でまだまだ。昔の新聞から見つけることが
できたとしても、情報が中途半端であったり、字が潰れて判読できないもの
もあったりとなかなか難しい。

今回、「高校野球創部調査β版(試作版)」の作者、弘田正典氏から海草中の
真田重蔵投手の完全試合の情報をいただいたので、紹介。

眞田快投 見事パーフェクト・ゲーム
・・・・・・・・・・・・・・・
近畿中等野球豫選 對海南戰
・・・・・・・・・・・・・・・
海草中學の眞田投手は六日和中球場で擧行された
近畿中等野球和歌山豫選で海南中學との一戰に
九回を通じて快投、一壘を踏ませず遂に無安打、無四球、
無得點といふ珍しい記録を樹立し3ー0で快勝
一方海南中學内山投手も海草中學から三振十一を奪って
快投したがつひにおよばなかった

(出典:「大阪毎日新聞」1941(昭和16)年4月7日付 朝刊(4)面)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
海草中3Aー0海南中
六日午前十一時四十五分開始、終了午後一時五分、和中球場

海南
000 000 000 =0
300 000 00A =3
海草

海南中學
遊 筒井
左 橋本
投 内山
中 前田
捕 金田
三 平田
一 小林
二 山西
右 佐藤

海草中學
中 加納
左 宮崎
二 田中
投 眞田
一 森本
捕 志水
右 貴志
遊 南
三 加茂

海南中學
打数 27
安打 00
犠打 00
三振 06
四球 00
失策 03

海草中學
打数 27
安打 03
犠打 03
三振 11
四球 01
失策 00

(出典:「朝日新聞/和歌山版」1941(昭和16)年4月8日付 朝刊(6)面)


弘田正典氏に情報提供いただきました。

これは非常に貴重な情報だ。実は戦後の1950年代あたりまでは真田投手
が中等野球時代に達成した完全試合が紹介されることは何度かあったようだ。
56年の春に豊川の谷吉雄投手が完全試合を達成した際にも、毎日新聞
では真田投手の完全試合のことに触れている(1956年(昭和31年)
4月7日付朝刊)。だが、詳しいことが書かれていなかったので、完全試合
の試合を特定できずにいた。今回弘田氏に情報をいただき、戦前の真田投手
の完全試合がいつ達成されたものか判明させることができた。
因みに近畿二府四縣中等野球大会では真田投手の先輩・嶋清一投手も本大会
にてノーヒットノーランの偉業を達成している。
さらにこの年の近畿大会和歌山予選の情報もいただいた。参加校は4校。前年
夏の予選参加の箕島商は参加していない。結果は海草中3ー0海南中、
和中3ー2和商、4月7日の和歌山予選決勝は、海草中10Aー1和中。
夏の甲子園2連覇中の海草中はこの時代、相当な強さを誇っており、それだけ
に夏の予選中止は本当に悔やまれるところだろう。

なお、旧海草中の向陽は春の県予選で48年ぶり4回目となる優勝を
果たした。2chでは同校野球部のダークな情報が流れているが、名門校に
ありがちな負の遺産が継承されているのか、それとも単なる中傷なのか。
どこまでが本当の話なのだろう?
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