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五つの原案突きつける

1961年(昭和36年)プロ野球界と社会人野球界の間で起こった選手
引き抜きトラブル”柳川事件”。この事件を発端にプロアマの確執が始まる
ことになる。

そもそも日本野球機構(プロ側)は日本社会人野球協会との間で契約問題に
ついて毎年協定を締結していた。従来社会人野球とプロ側との間では産業対抗
大会終了までは選手と交渉してはならない、というルールがあり、これはプロ
側も守っていた。だが社会人側が新たに、プロ野球を退団した選手は資格審査
を受けた後翌年秋(つまり退団1年後)まで社会人野球チームに登録できない
とし、さらに人数も1チーム3人までという取り決めを言い渡した。多数の
プロ退団者がノンプロに就職していた当時の状況からして、これは厳しすぎる
ということでプロ側が条件の緩和を提案したものの、社会人側に拒否された
ことによりプロ側は態度を硬化させた。このような制限が年々強化されれば
相互利益という立場に立つ協定を結ぶことはできないとし、プロ側は社会人
協会に対し、本年度は協定は結ばないと正式に通達したのだ。これにより
プロアマ無協定状態に突入した。
そうなればプロ側が社会人の有望選手を引き抜きに入るのは時間の問題だ。
中日ドラゴンズが4月20日(21日?)に日本生命の柳川福三外野手と契約、
入団を発表した。当然、これにはアマ側も黙ってはいない。
プロ側は協定を破棄した以上、引き抜きはルールを違反したことにはならない
が、こういった例が続出するのはまずいということで、アマ側はプロ側に対し
”五つの原案”を柳川選手の契約から1週間足らずの4月25日に発表した。
内容は以下のとおり。
1.プロ退団選手は来年度より本協会へは一切受け入れない
2.中日球団関係者は今後一切本協会の会員になれない(他球団は従来どおり)
3.本協会所属チーム選手が従来の協定中にプロに加入すればペナルティと
してそのチームは都市対抗野球には出られない
4.(1の続き)本年度のプロ退団選手が本協会員になるには退団2〜5年
を経て資格審査委員会をパスした者に限る
5.柳川選手は本協会に復帰することはできない

この原案に対し鈴木セリーグ会長は「あまりに感情的だ。こちらの希望が
通らない以上は彼らと今のところ話し合う余地がない」とした。

・・こうしてプロアマの長い冷戦時代が始まったのだった。
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統制令前の全国大会3

野球統制令発令以前の全国大会の第三弾。
関西中央新聞主催の選抜中等野球大会の第一回と思われる大会を紹介。
1929年(昭和4年)の8月29日から9月1日の4日間にかけて日本選抜
野球大会なる大会が関西中央新聞の主催により、藤井寺球場にて行われている。
前回紹介した(第三回)選抜中等野球大会と大会名は違うが、主催社、球場が
同じであることから、この年の日本選抜野球大会というのは=第一回選抜中等
野球大会と考えるのが妥当だろう(もちろん断定はできないが)。なお、
参加8校のうち直前に行われた夏の甲子園に出場したチームは、ない。
参加チームは西日本勢に偏っているが、とりあえず全国規模の大会という
ことにした。

▽1回戦―――

高松中
020 210 000 =5
210 030 00X =6
甲陽中

和歌山中
400 011 220 =10
100 000 000 =1
豊橋中

松山商
01000100011 =4
00000200010 =3
八尾中

神戸一中
100 010 000 =2
000 004 00X =4
愛知商

▽準決勝―――

松山商
000 000 020 =2
010 000 000 =1
甲陽中

和歌山中
300 001 100 =5
200 100 001 =4
愛知商

▽決勝―――

和歌山中
100000000000
100000000000
松山商
【和】山下―島本
【松】矢野―岡本
000000001 =2
000000000 =1

・・この年の夏の紀和大会で敗退し、夏の全国大会連続出場が14で途絶えた
和歌山中だったが、この選抜大会では見事優勝を飾った。決勝での松山商との
試合は延長21回の大激闘だ。
なお延長21回という延長試合は当時の延長最高記録と思われたが、この2年
前の27年の茨城商と水戸中の試合(練習試合か公式戦かは不明)での延長25
回の激戦が行われたという説がある。これが当時の延長最高記録だったのでは
ないか。

春季大会優勝校―東北

続いて東北

東北大会

1954 青森一 第36回 奥羽 ● 秋田
1955 八戸 第37回 奥羽 ● 岩手
1956 秋田商 第38回 奥羽 ● 秋田
1957 東北 第39回 東北 ● 山形南
1958 東北 第40回 宮城 甲子園出場  ◎  
1959 東北 第41回 東北 甲子園出場 ◎  
1960 秋田商 第42回 西奥羽 甲子園出場 ◎  
1961 東北 第43回 東北 甲子園出場 ◎  
1962 雨天中止 第44回 ―
1963 仙台育英 第45回 宮城 甲子園出場 ◎  
1964 能代 第46回 西奥羽 ● 秋田工
1965 秋田 第47回 西奥羽 甲子園出場 ◎  
1966 秋田 第48回 西奥羽 甲子園出場 ◎  
1967 秋田工 第49回 西奥羽 ● 本荘
1968 日大山形 第50回 山形 甲子園出場 ◎  
1969 仙台育英 第51回 東北 ● 仙台商
1970 大船渡工 第52回 北奥羽 ● 五所川原農林
1971 黒沢尻工 第53回 北奥羽 ● 花巻北
1972 秋田 第54回 西奥羽 ● 秋田市立
1973 保原 第55回 福島 ● 双葉
1974 秋田市立 第56回 奥羽 甲子園出場 ◎  
1975 日大山形 第57回 東北 ● 仙台育英
1976 東北 第58回 宮城 甲子園出場 ◎  
1977 弘前実 第59回 奥羽 ● 能代
1978 仙台育英 第60回 宮城 甲子園出場 ◎  
1979 安積商 第61回 福島 甲子園出場 ◎  
1980 東北 第62回 宮城 甲子園出場 ◎  
1981 秋田経大付 第63回 秋田 甲子園出場 ◎  
1982 能代 第64回 秋田 ● 秋田経大付
1983 東北 第65回 宮城 ● 仙台商
1984 金足農 第66回 秋田 甲子園出場 ◎  
1985 青森商 第67回 青森 ● 八戸
1986
本荘 第68回 秋田 ● 秋田工
秋田経法大付 第68回 秋田 ●
1987 秋田経法大付 第69回 秋田 甲子園出場 ◎  
1988 仙台育英 第70回 宮城 ● 東陵
1989 仙台育英 第71回 宮城 甲子園出場 ◎  
1990 東海大山形 第72回 山形 ● 日大山形
1991 東北 第73回 宮城 甲子園出場 ◎  
1992 仙台育英 第74回 宮城 甲子園出場 ◎  
1993 学法石川 第75回 福島 甲子園出場 ◎  
1994 仙台育英 第76回 宮城 甲子園出場 ◎  
1995 青森山田 第77回 青森 甲子園出場 ◎
1996 仙台育英 第78回 宮城 甲子園出場 ◎  
1997 仙台育英 第79回 宮城 甲子園出場 ◎  
1998 日大山形 第80回 山形 甲子園出場 ◎  
1999 仙台育英 第81回 宮城 甲子園出場 ◎  
2000 東北 第82回 宮城 ● 仙台育英
2001 専大北上 第83回 岩手 ● 盛岡大付
2002 酒田南 第84回 山形 甲子園出場 ◎  
2003 東北 第85回 宮城 甲子園出場 ◎  
2004 東北 第86回 宮城 甲子園出場 ◎  
2005 青森山田 第87回 青森 甲子園出場 ◎  
2006 光星学院 第88回 青森 ● 青森山田
2007 一関一 第89回 岩手 ● 花巻東
2008 青森山田 第90回 青森 甲子園出場 ◎

1954〜2008までの優勝校数55
(2校優勝1回、決勝中止1回)
夏の甲子園出場校31校
31/55で出場確率=.564

内訳
▽青森
優勝8、出場3
▽岩手
優勝4、出場0
▽秋田
優勝14、出場7
▽山形
優勝5、出場3
▽宮城
優勝21、出場16
▽福島
優勝3、出場2

春の優勝校55校のうち半数以上の31校が夏の甲子園にコマを進めている
ことからもわかるように、春の東北大会で優勝するのは夏の甲子園へ向けて
縁起が良い。特に近年90年代以降の甲子園出場確率は非常に高く、また
予選で敗れるにしても惜しいところまで勝ち上がっている。

肩を冷やす

投手が投げ終わったあとでアイシングをして肩を冷やすというのは、いまや
野球界では当たり前の光景として見かける。アイシングというのは疲労の除去、
炎症の抑制という効果があるという。ただ、プロ入りした投手の中にも投球後
にアイシングをしない投手もいるという(今はどうか知らない)。
トレーナーによっても意見が違うようだが、ネットで調べたところほとんどの
人がアイシング肯定派である。
投手が肩を冷やすというのは作者池田くんが現役球児のころから既にあった。
15年以上前の話で、当時はあまり浸透していなかったと思う。

大昔は、投手は肩を冷やしてはならないというのが通説としてあり、さらに
水泳も禁止されていた。大昔の大投手たちは何百球も投げたあとでも
ほったらかしで、それから大して間隔も空けず普通に投げていたというのか。

いつ頃から投手は肩を冷やすようになったのか。肩を冷やすというのは
もともと大リーグが発祥らしい。これが米アマチュア球界にも広がり、
日米大学野球で来日した米チームも「大リーグ方式」を取り入れていたこと
から日本にも広がったと思われる。高校野球界で話題になったのは、
1979年(昭和54年)夏の甲子園予選・西東京大会を制して甲子園出場
を決めた日大三だ。日大三の中瀬投手は連投対策として、氷を使って(肩で
はなく)腕を冷やした。日大三の小枝監督は「大リーグ方式」を取り入れた
わけだ。これまでの投手の通説を覆す大リーグ方式が功を奏し、中瀬投手は
快投、甲子園につながったのだった。

いまやスポーツは科学の時代なのか。根性論を若いひとたちの前で説いたら、
生きた化石と言われそうである。
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