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春夏優勝校決戦−2

◆1929年(昭和4年)

この年の第6回選抜大会より、入場式の際の各校先頭に校名を記したプラカード
を加え、試合終了後の校歌吹奏と校旗掲揚を開始しました。また同じくこの年
に甲子園球場にアルプススタンドが新設されました。春の大会を制したのは、
のち国鉄初代監督となる西垣徳雄が投手を務める第一神港商。夏の予選、
レギュラーメンバーが不在となった第一神港商は振るわず初戦敗退を喫しま
した。夏の大会で優勝したのは石本秀一監督が率いる広島商でした。

春夏優勝校決戦は神戸又新日報(五州社)の主催によって行われました。
前回、前々回よりも1ヶ月早い10月6日に甲子園にて。神戸又新日報の
当日の社告には

本社主催
甲子園選抜野球大会優勝戦・・午前十時 神戸一中 和歌山中
その後、首相優勝旗授与式
別に 本日午後二時よりの試合
大阪毎日選抜大会優勝校 神港商
大阪朝日全国大会優勝校 広島商

とあります。春夏優勝校決戦が後に行われていることからトリという解釈も
できますが、新聞記事では特別試合とあるので、どちらかといえばメインは
甲子園選抜野球大会の決勝 神戸一中と和歌山中の対戦であったようです。

とはいえこの春夏優勝決戦に両校ともに母校の全名誉を背負っていると
新聞に書かれているほどで、さぞかし盛り上がったであろうと思います。

■10月6日(阪神甲子園球場)
和歌山中
100 010 000 =2
000 000 000 =0
神戸一中
【和】 山下―島本
【神】 鈴木―石本

■同
広島商
000 000 101 =2
010 000 22X =5
第一神港商
【広】 生田―和田
【第】 西垣―倉

第一神港商と広島商の試合、後半の長打攻勢で第一神港商が突き放して
快勝。春夏優勝校決戦から3年目にしてはじめて春優勝校が夏優勝校を
破りました。

◆1930年(昭和5年)

第7回春の選抜大会を制したのは第一神港商。第一神港商は大会通算54
奪三振を記録した岸本正治投手の活躍などにより選抜史上初の連覇の偉業
を達成しました。夏の予選、主力を欠いた第一神港商は前年と同じく初戦
で早くも姿を消しました。大会を制したのはこちらも前年に続き広島商
でした。昭和4、5年は春は第一神港商、夏は広島商の連覇と2年連続
で同じチームが独占しました。というわけで春夏優勝校対決は前年と同
じく第一神港商と広島商の対決となりました。大毎後援の元(主催は不明)
、全日本中等野球争覇試合の1試合目は10月12日甲子園球場にておこなわれ
ました。この試合では春夏対決の前に前座ともいえる明石中―平安中の
試合が行われています。

■10月12日(阪神甲子園球場):午前
平安中
010 010 000 =2
100 000 03X =4
明石中
【平】 伊藤兄弟―岡村
【明】 楠本―桜井

明石中が逆転勝利で勝ったあとトリの対決が行われました。のち「世紀の
剛腕」といわれる楠本保が下級生ながら早くも登板。強豪の平安中に対し
わずか2失点で勝ち投手になりました。

■10月12日(阪神甲子園球場):午後
広島商
000 120 002 =5
000 101 000 =2
第一神港商
【広】 灰山―土手
【第】 太田、岸本―高島

この試合の観衆なんと4万人。春夏優勝校対決とはいえ、正式な大会
ではないこの対決に、現在の選抜決勝並みの客数を集めるほど、当時
の中等野球の人気、注目は高かったわけです。広商は灰山を先発投手
に、神港商は主戦の岸本が負傷のため左腕の1年生・太田を立て試合
に臨みました。広島商がヒットと相手守備の乱れで勝ち越し最終回に
も失策がらみで2点を加え5−2で第一神港商を破りました。

■10月26日(広島グラウンド)
広島商
010 040 220 =9
000 001 100 =2
第一神港商
【広】 灰山―土手
【第】 岸本、太田―高島

第二ラウンドは広島グラウンドで26日午前10時10分に開始されました。
第一神港商はエースの岸本が先発し雪辱を期しましたが、広島商の
打線につかまりました。広島商は二桁安打に2本塁打で9−2と第一
神港商を圧倒しました。「完全に全国中等学校野球の覇権を掌握した」
と大阪毎日新聞にあります。この春夏優勝校対決は最初から2試合の
予定だったのか、それとも先に2勝した側の勝ちというルールだった
のかは不明です。

◆1931年(昭和6年)

第8回春の選抜大会では日本の野球で初めて背番号が使用されました。
優勝したのは広島商。夏の連覇に続いて春も優勝し、史上初の夏春
連覇を達成するなど、黄金時代を形成しました。夏の予選、広島商
は控えメンバーで早期敗退。甲子園出場はなりませんでした。夏の
大会は初出場の中京商が優勝しました。中京商はこの年から前人未到
の夏3連覇を達成、今度は中京商の時代の幕開けでもありました。
春夏優勝校対決は広島商と中京商の勝負となり、選抜決勝と同じカード
になりました。

■10月25日(阪神甲子園球場)
中京商
002 001 200 =5
000 000 001 =1
広島商
【中】 吉田―桜井
【広】 灰山―土手

この年の中等球界の王座を決定する一戦として人気を呼んだ広商VS
中京の一戦は10月25日甲子園にて行われました。観客は3万人。大勢
の観客を集めたとはいえ、前年より大幅に少ないのは地元のチームで
はなかったからかも知れません。試合は中京商が3回、恒川の2点
本塁打で先取、その後も追加点を加え快勝しました。広島商は打線に
つながりを欠き1点どまり。中京商が先手を取りました。

■10月28日(静岡球場)
中京商
004 001 000 =5
100 010 000 =2
広島商
【中】 鬼頭―桜井
【広】 灰山―土手

2戦目は場所を移し静岡球場にて行われました。中京商は先発は鬼頭。
広島商は前回と同じく灰山。試合の詳細は不明です。5−2で中京商
が広島商を破りこの年の中等球界王者に輝きました。広島商がもし夏
を主力メンバーで戦っていたら夏3連覇はあっただろうか、という話
になったりしますが、春夏対決で中京商に2戦とも完敗していること
を考えると、夏に中京商を倒すのは難しかったかも知れません。

追記2012年10月8日
静岡の読者さんに情報提供いただきました。
10月28日に行われたこの試合ですが、試合を行うと正式に決まった
のがなんと24日。甲子園での第一戦の前日です。つまり、二試合
行うかは最初から決まっていたわけでは無さそうであったという
ことです。試合内容ですが、2つの新聞からまとめてみました。

広島商は灰山、中京商は下級生のサウスポー鬼頭が先発。
一回裏広島商はその中京商鬼頭投手から立ち上がり三連続四球
で無死満塁。そして四番灰山は粘ってレフト右へ先制タイムリー。
しかし、二塁走者の判断が悪く三塁アウト。その後も二死満塁
と攻めるも追加点ならず。これが試合に大きく影響します。

三回表に中京商は後藤三塁ベース上を抜くヒット(民友新聞。
静岡新報は二塁上を抜くになってます)。杉浦がショートゴロ
ファンブルで一二塁とし、大鹿が送って一死二三塁。恒川三振
も櫻井敬遠で二死満塁。続く鈴木が初球を左中間へテキサス
ヒットで二者生還し櫻井も三塁へ。続く村上の時に鈴木が二盗
を決め、村上も四球でまた満塁に。そして吉岡が右中間(民友。
新報は左中間)をライナーで抜き二者生還。中京商4-1広島商と
します。五回裏広島商は濱崎がショートゴロ一塁失に生き(民友。
新報は三塁ファンブル)。久森ショートゴロで走者入れ替わり
竹岡三振。しかし、太田の一塁を抜くライナーをライトが弾いた
間に走者がホームイン。4-2と詰め寄ります。

六回表。中京商は先頭村上が初球を左中間を抜き三塁打。
しかし、吉岡は投ゴロ。鬼頭はバント(セフティースクイズ
気味か?)も、灰山が走者をうまく牽制しながら処理し、二死
三塁に。続く打者は後藤。ノーボールツーストライクと追い
込まれた次の一球で、村上がなんとホームスチール。
キャッチャーがタッチできず、貴重な追加点。これが試合を
決めました。

九回裏広島商は二死から竹岡安打太田四球と続くも、灰山は
セカンドゴロに倒れ試合終了。鬼頭は大抜擢に応え大一番を
完投勝利しました。


・・翌1932年(昭和7年)、文部省が野球統制令を出し、春優勝校の
アメリカ旅行がなくなり、春夏優勝校対決もなくなりました。

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春夏優勝校決戦−1

シーズンオフに入ったので、戦前の中等野球時代の話やその他の話題を
いろいろと取り上げていきます。まずは先日私の掲示板でも話題になった
中等野球 春夏優勝校決戦から(弘田氏に資料のご提供をいただきました)。

1927年(昭和2年)から選抜優勝校は夏に日米親善という趣旨によりアメ
リカ旅行に行けるという特典がついていました。アメリカ旅行は7月中旬
から9月中旬までの長期にわたるもので、その間に、アメリカメジャーリーグ
の見学や親善試合などを行うというもの。この旅行の期間は夏の大会期間とも
重なるため、春の優勝校は留守部隊で夏の予選を戦わなければならず苦戦を
強いられました。夏の大会に肝心の春の優勝校の主力を欠く。これに関しては
春の大会主催の毎日新聞社が朝日新聞社主催の夏の大会の興味を削ぐため
の陰謀だったのではないか、なんて話もまことしやかに言われています。

◆1927年(昭和2年)

1927年(昭和2年)の春優勝校・和歌山中は補欠メンバーで夏の予選も勝ち
抜き甲子園出場を果たしましたが、初戦で大敗。結局この大会を制したのは
高松商でした。大会終了後になって和歌山中レギュラーがもし渡米せずに
大会に参加していたならば高松商の夏日本一も危うかったのではないか、
本当に強いのなら和歌山中と対戦してみたらどうか、そんな声が阪神地域の
ファンの間で起こりはじめ、春の大阪毎日、夏の大阪朝日両新聞社に対決を
要望する投書が激しくなってきました。しかしお互いの面目もあって両新聞
社ともとりあげることはできませんでした。そこで名乗りをあげたのが
寝屋川球場を所有する京阪電車、それと阪急電車。京阪電車が持つ寝屋川
球場で両チームとも幾度となく招待試合をしており、そのお世話になったと
いう意味もこめて「京阪電車主催ならお受けしても良い」と両チーム承諾
したことで、春夏優勝校の一大決戦が実現することになりました。
[中央運動社(スポーツ雑誌の出版社)主催説あり]

■11月6日(寝屋川球場)
高松商
303 000 100 =7
201 000 100 =4
和歌山中
【高】 水原、井川―多胡
【和】 小川―島本

1回表、高松商のトップバッター・堀の初球セーフティーバントという奇襲攻撃
をしかけた。三塁線に転がしたバントで見事出塁。和中にとっては青天の霹靂
ともいえる出来事で、和歌山中の好投手・小川も動揺を隠せず。高松商はここ
からチャンスを広げ初回に3点を先取し、その後も和歌山中の小川を攻め合計
7点。和歌山中も反撃したが追い上げ及ばず。こうして高松商が和歌山中を
破り真の日本一に輝いたのでした。

当時の高松商はこの試合の初回先頭バッター初球バントという意表を突いた
攻撃をはじめ、野球の奥義を窮めた頭脳プレーが随分と進んでおり、例えば
速球投手対策として練習時に投手が前に立って投げるというのもこの当時から
やっていましたし、相手捕手のサインを盗むためにセンター後方から関係者が
双眼鏡で見て、サインをこうもり傘の開閉で送っていたいう話もあります
(現在ではもちろん禁止です)。

◆1928年(昭和3年)

ラジオで中継が全国展開となった1928年(昭和3年)。春は関西学院中が優勝
しました。夏の予選、主力のいない関西学院中は早々と敗退し甲子園出場を
逃しました。この夏の大会で優勝したのはのちプロ野球史上初の三冠王となる
中島治康がいる松本商でした。その後、前年と同じように春夏優勝校の対決
(関西学院中VS松本商)が実現するのですが、前年のような「春夏優勝校を
対決させよう」といった盛り上がりはなかったようです。これは春優勝の関西
学院中が前年優勝の和歌山中ほど実力を評価されていなかったからかも知れま
せん。また、秋に真の日本一決戦を行うのが恒例となれば、春の優勝校主力
選手を欠く夏の大会が権威を落とすということも考えられるため、朝日側と
しては面白くなかったのではないかというのも考えられます。

関西学院中と松本商の春夏優勝校決戦は前年のような単独ではなく、大会の
一部として行われました。大会は松商野球部戦歴史 留魂には「スポーツマン社
主催中等学校リーグ戦」とあり、大阪朝日新聞には「全国中等選抜野球」とあり
ます。場所は藤井寺球場。当時「○○選抜中等野球大会」のような名の大会は
全国各地で繰り広げられていたので、朝日の「全国中等選抜野球」というのは
単に省略してこういう呼び方をしたのだと思います。

野球統制令以前の大会一覧

この「スポーツマン社主催中等学校リーグ戦」は名のとおりリーグ戦で
行われたのでしょうが、一部しかわかっていません。

■11月3日(藤井寺球場)
和歌山中
000 000 200 000 0 =2
100 000 001 000 0 =2
松本商
<延長13回ドロンゲーム>
【和】 小川―島本
【松】 中島―百瀬

■11月4日(藤井寺球場)
和歌山中
010 000 010 =2
000 000 010 =1
鹿児島商
【和】 小川―島本
【鹿】 能勢―餅田

■同
関西学院中
000 000 000 =0
001 010 10X =3
松本商
【関】 悳―浅井
【松】 中島―百瀬

― リーグ戦結果 ―
 松和関鹿
松\△○?
和△\?○
関●?\?
鹿?●?\
―――――――――

ここに名前のある学校すべてがこの後行われた東京六大学野球連盟主催の
御大典奉祝野球大会に参加しています。松本商の初戦は11月8日(早大
球場)。大忙しです。野球統制令が発令される前は強豪校がいかに多く
の大会に参加していたかがわかります。
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